2013年11月28日

人間とは――その神学的考察


                   テキスト・聖書教理がわかる94章「人間」 J.A.パッカー著

                               

 聖書は、神と人間との物語です。聖書では、神と人間、このどちらを省いても聖書の意味はなさないと思います。
 また、私たちが、これを読む意味もありません。もし、神が存在しないなら、聖書は、ただの、てんでバラバラの、人間のお話です。大昔の話があったり、少し時代が下って来てからのものがあったり、殺人事件があったり、戦争があったり、騙し合いがあったり、不思議な出来事があったり、天災があったり、恐ろしい話があったり・・・。占いや口寄せや幽霊が登場したり。確かに、ドラマチックだけれど、それだけのことです。歴史を見ると、戦争や殺し合いは珍しくもありませんし、ものすごい天変地異もありますし、占いや幽霊の話なら、今でも、テレビをつけると簡単に見ることができます。現代のこの世界を見ても、事件や問題は山積しています。


 人は生まれる者であり、死んでいく者です。どこからか来て、どこかへ消えていくのです。生きている間は、親子や兄弟、夫婦、恋人、友人、仕事相手などとつながり、それを「縁」「関係」などと呼んだりしますが、それも生きている間だけです。どんなに執着した間柄でも、やがては切り離されるのです。

 聖書が、特別の書物なのは、これら事件の山積する世界の、無数の主人公・人に対し、もう一方に、神がおられるからです。しかも、それは1対70億といったふうには対比出来ない図式です。
 神は、たとえば海をはさんで、太平洋の彼方におられるのではありません。大空の向こうにおられるのでもありません。地下深くにおられるのでもありません。
 聖書では、神はおひとりの神で、この上もなく大きなお方です。宇宙万物を創造され、星も月も太陽をも支配し、支えておられるお方なのです。さりとて、神が宇宙万物を風呂敷のように包んでいるのではなさそうです。
 私たちが、神の中に「存在させられている」のです。神のどこ? 頭? 胸? 腹?などという問はナンセンスです。
 神は霊であり、肉体をお取りになっていないからです。
 神は遍在と言って、宇宙のあらゆるところにおられるのですが、それは、宇宙が神の中に存在させられているからです。


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 聖書の話は、この創造者にして、想像を絶する霊的存在であられる神と、被造物・人間とのかかわりの話なのです。聖書の中に、火山が出て来るから、海が出て来るから、川が出て来るから、虫や蛇やサソリや魚や牛や羊が出て来るからと言って、神さまがそれらに話しかけておられるでしょうか。関心をお持ちなのは人だけ、といえるような話です。

 天地万物を創造されるプロセスで、神は、すべてのお造りになった物をご覧になって。「ひじょうに良かった」と満足しておられます。
 しかし、それで満足なさらず、人をお造りになったのです。
 人だけは、特別な工程で造られています。人以外はみな、ことばだけで、造り上げられました。「光よ。あれ」と仰せになると、光が現れたのです。水の中に、泳ぐ者が現れよと仰せになると、水中に魚が泳ぎ始めたのです。ところが、人については、出来上がった人のかたちに、神は「いのちの息」を吹きこまれたのです。神の息を吹き込まれた人は、「生きるもの」となったのです。神の息を吹き込まれた「ひと」は、すぐに、神のお話になることや自分の置かれた状況を理解したことが記されています。喜怒哀楽もありました。孤独も理解したようです。そこで、神は、人にパートナーを与えようと考えられたわけです。
 たくさんの動物たちの前に連れて行かれた人は、動物たちを識別し、名前を付ける知能はありましたが、かれらをパートナーとしては選びませんでした。人のパートナーは、人でなければなりませんでした。
 もっと重要なことは、人は自分の造り主とは霊的に結ばれ、その絆の中で平安な生活を送ることができる存在であったということです。

 これは、神にとっても同じでした。神は、たんに運動体である宇宙、生々流転する物質世界をお造りになったのではないと思います。神は、宇宙の完璧な秩序の中で、幸せに生きる知能も感情も霊的能力もある特別の生き物・人をそこに置かれることを、最初から目的にされていたに違いありません。人をご覧になり、その幸せをごらんになり、神ご自身が彼らをそばに置かれて、満足されることが、創造の目的であったのです。

 聖書は、このような神と人との特別な物語の場として存在するこの地球、そこで暮らす、人間と、神の物語なのです。
 物語になったのは、最初の人間アダムとエバが罪を犯して、神の御前から追放されてしまったからです。
 愛なる神は、同時に、聖なる神――義なるお方ですから、間違いを犯した人間の間違いをあいまいにすることはできないのです。 
 追放は、神にとっても、非常な痛みと悲しみを伴うことだったに違いありません。神は、人を愛しておられたからです。いわば、人は神に造られた「子ども」であったからです。
 この人間を、何とかふたたび御許に連れ戻そうと願って、いろいろ苦心しておられる神と、神から切り離されて、迷いつまずきながら罪の世を生きる人間との、悲しいばかりのドラマが聖書です。

 
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 聖書は、歴史の書のように見えます。また、さまざまな厳しいおきてと戒めの書に見えます。理不尽な運命や、天災に翻弄される悲劇の物語にも見えます。
 間違いに間違いを重ねる選びの民イスラエルは、神が、何とか「選びの民」として正しくあらせようと、苦心され続けるのです。イスラエルの民も、何とか、自分たちの神に随おうと軌道修正することもあるのです。けれども、けっきょく、神から棄てられ、国を失い、どん底まで辛酸をなめて、ようやく、自分の神様に随おうと決心する人たちによる新しい国を建てるのですが、それは、彼らが待ちに待った独立国ではありませんでした。

 しかし、それでよかったのです。神ご自身がご降誕になって十字架にかかり、人の罪を贖って死んでくださるためには、イスラエルがこのような植民地であるのも、一つの必然でした。このために、救い主イエス様は、イスラエルを救う「武力の王」と誤解され、そうできなかったために、イスラエルの民からも捨てられるのです
 

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 連合聖会(註、新生連合教会グループ)で増田先生(註・福島中通りコミィニティチャーチ、増田泰司牧師)が、お話しになった十字架の贖いと復活の話は、神と人の和解のクライマックスについて語られています。長い間、へだてられていた神とのお交わりが、キリストの刑死によって回復され、神の御許での永遠の命もまた、キリストの復活によって回復されたことが、示されたのです。

 聖書的に、人とは何かと問われれば、私は一言で言って、神の愛の対象として造られた者というでしょう。
 聖書に従うならば、そうではないでしょうか。
 知能の高い人間が、その観念的思索力を駆使して、神を創造したといった観点は、神学的ではないと思います。
 
 私たちが、神に祈り神にひれ伏すのは、その意味で、もとより、ご利益のためではありません。増田先生がおっしゃっていたように、神様にとって良いことと、人がしてもらいたいことは、かならずしも一致しないのです。
 私たちが恐れなければならないのは神様です。礼拝し、幸せを感じるのも相手が神様だからです。

 人間は最初、神様から特別な方法で、特別な目的を持って造っていただいたのだという「特権」に、歓びを覚えるものとなろうではありませんか。


 お祈りします。
 


   ★祈祷会でのさとうまさこのメッセージを掲載しました。



posted by さとうまさこ at 12:34| Comment(0) | 聖書の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月11日

メッセージ・ハガルとイシュマイル(創世記21章)


       ハガルとイシュマイル
       (副読本・「聖書の女性50人」ユニス・F・プリデイ著、いのちのことば社)

 先週、先々週と、私達はサラについて考えてきました。ですから、すでにハガルが聖書のどこに登場し、どのような役まわりだったか知っているわけです。アダムとエバ、アブラハム、モーセ、ダビデ、ソロモン、イエス・キリストといった名前はクリスチャンでなくても、聞いたことがある名前。それほどの有名人です。そのアブラハムの家の奴隷女、それがハガルでした。それだけなら聖書に名前が残ることもなかったのですが、アブラハムの子供を産んだので、彼女は歴史に名前が残りました。とはいえ、彼女の名前はわたしたちにはネガティブな印象で入っているのではないでしょうか。

 ハガルをアブラハムに勧めたのは、妻のサラでした。アブラハムもサラの勧めを断りませんでした。しかし、クリスチャンであるわたしたちの目から見ると、アブラハムが神の約束があるにもかかわらず、サラではなくハガルに子供を産ませたのはとても不快なことなのです。アブラハムは「その信仰で義とされた」人だからです。

 聖書の物語を一読したとき、私達はハガルがいなければ良かったのにとか、サラがハガルをアブラハムに与えなければ良かったのにとか、ハガルは断るべきだったなどと、思ってしまうのです。この本の著者ユニス・F・プリディさんも、ハガルがサラの命令を拒絶しなかったことを非難しています。

 神の救いの計画に用いられ、神がアブラハムに「あなたの子孫はこのようになる」と星空を見せられた子孫とは、けっきょく、イサクの子孫だったとしたら、ハガルとイシュマイルは何の意味があって聖書に登場したのでしょう。たんに、サラやアブラハムの過ちを見せるだけだった!のでしょうか。ハガルは、もし存在しなければその方がよかった、無意味な存在なのでしょうか。そんなことはあり得ません。

 ハガルの話を読むとき、私は見落としてはならないポイントをいくつか上げたいと思います。

 その第一は、当たり前なのですが、これが聖書の中の物語だということです。神の人類救済の計画、それが聖書の物語です。罪を犯して楽園を追放され、神との隔てのない交わりも絶たれてしまった人間を、その最初から、神はふたたび御許に連れ帰って下さろうと計画をお持ちでした。悩みも悲しみも病も死もない世界で、永遠に私達を神様のふところに抱いてくださる、そんなご計画です。
 神はこのご計画を、選ばれた人たちに啓示と霊感を与えて、折に触れ文書にして残してくださいました。これらが一冊になったものが、いま私達が手にしている新旧約聖書です。
 聖書の見えない書き手は神、主役も神です。ただ、そのように、神の視点で書かれた物語ですが、聖書の登場人物はみな、限られたある時代を背景に生きていて、その時代のモラルや道徳や習慣に縛られた限界のある人間です。そのような者しかいなかったので、神は彼らを用いておられるのです。
 
 具体的に説明しましょう。

 ハガルの物語は、それ自体は特殊なものとは思えません。通俗小説やゴシップ、身辺雑話なら、無数にある話で、特に当時は珍しくなかったでしょう。妻が子供を産めない場合だけでなく、男の子がいない場合。子供がいても、夫が妾を持つ場合、妻はどうすることもできなかったのです。十戒が姦淫を禁じているのは、夫に妻以外の女性を求めることが神の命令に反すると戒めているのではありません。ある男が別の男の所有物としての「他人の妻」と関係をもつことが、姦淫とされたのです。ダビデがバテシバと関係を持ったときの神のお取り扱いを思い起こしてみてください。神は、ダビデが人妻と姦通し、しかもその夫を計略を用いて殺してパテシバを手に入れたことが非難されたのです。神は「もし望むならいくらでも与えたであろうに」(Uサムエル12-8)と言われています。つまり、妻は夫の所有物と思われていたので、他人の持ち物を欲してはならない。盗んではならない、と同じ発想です。ですから、相手が娼婦や未婚の娘なら、それ相応の「報酬」を与えればよいのです。女性が一人身なら結婚してしまえばすむことも多かったのです。一夫多妻の状況はありふれたものであり、たくさんのサラ・ハガル関係が存在したことでしょう。

 日本でも、戦前は、嫡出子、庶子、私生児の区別が、法律にも記されていました。嫡出子は正式な夫婦の間の子供、庶子は妾との間の子供、私生児は父親の認知がない子どもです。ハガルとイシュマイルのような悲しみや辛酸を舐めた母子が、歴史上、また、世界の各地で、数多くいたというわけです。

 サラ・ハガルの話を、本妻・妾の対立と読んでしまうとどうなるでしょう。これを、アブラハムの時代に当てはめると、ハガルもサラもアブラハムも、道徳的にはさほど非難されるところはないということになるのです。逆に、現代人の目でこれを批判する気なら、三人とも、とても褒められた人間とはいえません。聖書は、時代背景を考えて読まなければならないのです。その上で、神の目からご覧になった彼らを考えるのです。

 この本の著者(注・副読本「聖書の女性50人」)は、私達に、聖書の中の女性たちを、今の自分の身に引き比べて考えさせることによって、聖書の世界へ案内する意図でこの本を書かれたようです。ベテランの伝道者である彼女は、同時にそのような手法の危うさも見通していたでしょう。でも、彼女も、人間の視点と神の視点を混同していて、その解釈が揺れています。たとえば、「ハガルが犠牲者だった。選択の余地がなかった」といい、同じ著者が、「ハガルは誘惑から身を守るべきだった」と書いているのです。
 
 神の救いのご計画は、アブラハム個人が一代でなせるようなものではありませんでした。アブラハムからイエス様が地上に来られるまでの年月でも、2千年近いと見られています。

 ご存知のように、ヤコブ、つまり神様からイスラエルと言う名前を賜ったヤコブとその子供たちは、ヨセフを頼ってエジプトに移住し、エジプトで増え広がり、イスラエル民族と呼ばれるほどの数になりました。その人々によって、アブラハム・イサク・ヤコブの神への信仰が受け継がれました。彼らは出エジプトに見られる歴史的な救いの経験を神から与えられ、契約を与えられ、やがてダビデの王国を建てられ、その子孫からキリストが誕生されることを聞きました。
 そのような遠大な計画に、神はすでに子や孫がいるような人間を召さず、子のない、子が生まれそうにもない老夫婦のアブラムを召しだされました。

 アブラハムがすでに子持ちで大家族であったなら、サラの煩悶もハガルの問題も起こらず、神様のご計画も手間要らずでスムースだったではいかとは、私のような人間が思うところです。当時の中東には、大家族を率いて、しかも敬虔な人物もいたはずです。たとえば、ヨブのような。アブラハム夫婦に子供がいなかった、常識的に考えると子供が生まれる可能性もないような老人だったところに、神のご計画の奥深さを見なければならないと思います。

 アブラハムは、神に従順で神の言葉を信じる人間であることが、何度もテストされています。「あなたの先祖はこの星空のようになる」と言われて神を信じ、期待するアブラハムだったのです。しかも、神は──人間の目から見るとですが──約束を遅らせておられました。テストは一瞬のものではなく、イサクが生まれるまででも二十五年に亘るものだったのです。そのテスト期間の長さに耐えられず、アブラハムとサラは間違いを犯したのです。その間違いの結果として、ハガルの試練があり、イシュマイルの誕生があったのです。一体、誰に一番咎があったというのでしょう。
 ハードなテストを与えた神でしょうか。弱い人間であったアブラハムやサラでしょうか。断乎としてサラの命令をはねつけなかったハガルでしょうか。

 私達は、答の出ないような出来事に遭遇することがよくあります。そのときに、つい、性急にだれかを非難します。この場合なら、アブラハムとサラの罪を見て苛立ちます。それで、またハガルがいなければよかったとか、ハガルは主人の要求を断るべきだったなどと、とんでもない発想まで出てくるのでしょう。そうしないですむ唯一の考え方は、神様のご計画について知ることではないでしょうか。とても、広く大きく奥の深い、神様のご計画は、私達にはすぐにはわからない。でも、神様はわかっていらっしゃるのだからと、信頼して、ゆったり構えることではないでしょうか。

 二つ目の大切なポイントは、神様の愛です。
 著者も言っているように、ハガルはアブラハムとサラの弱さの犠牲者でした。神のご計画の中であっても、不完全な人間は間違いを犯し、犠牲を生み出す。それを知っておられるので、神はハガルが死ぬか生きるかの瀬戸際で、二度も現れてくださいました。一度は妊娠中のハガル──もしそのとき、ハガルが砂漠で行き倒れていたら、イシュマイルの誕生はなかった──。もう一度はハガルと少年イシュマイルが砂漠で飢え死にするところを救われた。この時、イシュマイルが死んでいても、その子孫は存在しなかったのです。

 神様は人間をお造りになったそのときから、罪を犯した人間を救うことを願っておられ、その計画の中にアブラハムの物語があり、創世記、出エジプト、レビ記、民数記、申命記、師士記、ルツ記、サムエル記、列王記、歴代誌と続く聖書各書にあるように、それを、着々と実行してこられたのです。
 御子を世に遣わして福音を告げ知らされた後は、選ばれた民としてクリスチャンを用いておられます。ただ、クリスチャンもアブラハムと同じように間違いを犯し、間違いに巻き込まれて被害者になることだってありえます。また、クリスチャンでない人を巻き込んで、間違いを犯すこともあるでしょう。

 ハガルの物語のなかで、私達は神の「愛に満ちたまなざし」に気がつきます。神がここに登場してくる三人のおとな、アブラハム、サラ、ハガル。それと、二人の子供イサクとイシュマイルを、終始とても注意深く、愛を持って見守って導こうとされている点です。
 私達は、置かれた状況の中で、立場がなくなったり、不当な扱いを受けたりしたと思っても、落ち込む必要がありません。神様は犠牲者には、また、格別な配慮をされ、愛を見せてくださるというのを、ハガルの例は教えてくれます。

 しかし、この物語の一番大事なポイントは、なんと言っても、ハガルの成長でしょう。また、成長させてくださる神様、人間を作り変えてくださる神様について、知ることができることです。

 私達は、ハガルが成長していく姿に注目しなければならないと思います。ハガルは初めは、ただの奴隷女です。聖書が明らかにしているのは、彼女が、アブラムではなくサライの所有物だったこと、エジプト人だったことだけです。彼女が若かったとか、美しかったとか、想像はいくらでもふくらませられますが、細部に立ち入らないことで、聖書は大切な本質だけを見せようとしているのです。
 問題は外見ではありません。ハガルは確実に変化しています。初めは、主人の子供を身ごもっただけで舞い上がり、女主人から傲慢になったと言われるような態度の変化を見せる、子供っぽい少女です。同時に、女主人が反撃して憎むと、たちまち耐えられなくて、前後も考えず家出しています。

 荒れ野で野垂れ死にしても不思議のない状況で、神様は、ハガルの前に顕現されるのです。女主人の前で身を低くするようハガルを諭し、戻って子供を産むように促されました。この時、大切なのは、これがハガルの幻聴や心が生み出した「神の声」ではないことです。ハガルは「私をご覧になる方の後姿を見て・・」(創世記16:4-13)と言い、神が見てくださったのを、はっきりと見て、だから戻ったのです。

 イシュマイル誕生からイサクの誕生までの十四年間、ハガルがどんな様子だったかは聖書には書かれていません。サラとの葛藤があっても、イシュマイルを得て堂々とアブラムの家族として生きる、たくましい「母親」だったと想像させます。

 サラに子供が生まれるなんて、ハガルは、アブラハムやサラ以上に想定していなかったことでしょう。
イサクが生まれて、せっかく落ち着いたハガルの境遇が、根底からゆすぶられることになりました。イサクの乳離れの日に、イシュマイルが弟をからかったということで、サラはアブラハムに訴えました。ただの訴え方ではなかったのです。「追い出してください」と迫ったのです。それで、アブラハムは、ハガルとイシュマイルにいくらかの食料と水を与えて、追い出したわけです。

 二度目の放浪は、一度目とは違います。一度目は耐え難いいじめから逃げたとはいえ、自分から逃げたのです。「自分は悪くないのに。なんとかわいそうなハガル。でも、子供が欲しいアブラハムが、ひょっとして、誰かを捜しに寄越すかもしれない」なんて、期待さえあったかも知れません。すねた少女のように。

 でも、二度目は、絶望です。子供の父親であるアブラハム自身が、二人を追放したのです。イシュマイルはアブラハムの家で、まったく価値のない存在、邪魔者にさえなってしまったと思い知らされたのです。イシュマイルが渇きで死に、あとを追う様にハガルも死ぬことが目に見えていた中で、ハガルはなすすべがありませんでした。

 そのとき、主が現れたのです。
 この時、ハガルの「目が開けた」のです。(創世記21:14-20) 目が開けたという表現は、特別な意味があります。神への信仰に目が開けたのです。
 ハガルはこの時、「天地万物を創造されたまことの神」を知ったのです。すると、ハガルは泉を見つけることができました。泉は当時、生活の基盤でした。泉から人々の生活が始まり村や町や国が成立していきました。ハガルが泉を見つけたというのは、一時的に飲み水を見つけたことではなかったのです。イシュマイルとハガルはそこで生活の基盤を得たのです。イシュマイルは結婚し、その子孫が増え広がったのです。

 イシュマイルの子孫から今日のアラブ民族が生まれ、今日、別々の宗教を持って対立することになるのも、神様はご存知だったでしょう。それを、ご承知の上で、神は二度もハガルを死から救い出された、これはきっと、神のご計画の上で意味のあることだと思います。なぜなら、神が情に流されて、不覚にも、ミスをなさるなんてことはありえないからです。

 死に瀕して、まったく後がない状態の中で、ハガルは「まことの神」を知りました。彼女は成長したのです。神のお恵みによって「目が開かれた」のです。
 奴隷女で何の取り柄もなく、唯一の誇りであった子供さえマイナス要因となって死ななければならない、そんな状態の中で、神様はハガルを、なお生かし、大きく作り変えられたのです。
 神様は、私達にも、変わらぬ愛とお恵みを下さると期待できないでしょうか。「苦難の日には私を呼び求めよ」(詩篇50;15)と言ってくださる神様です。苦難の日に、私達を苦境から救い出してくださるだけでなく、信仰を増し加えてくださるのです。私たちを作り変えてくださる神様です。ハガルの話は4000年前の出来事です。けれども、神の視点から見ると、今日の出来事でもあるのです。主は、昨日も今日も明日も、いつも同じお方なのです。(ヘブル13-8)

 ハガルの物語を神の救いのご計画の中で見ること、神の御心と、そのみわざの中で見ること、これが、人間的な価値観による、安易な「裁き」を戒めます。

 私達は、まことの神様がどれほど素晴らしいお方か改めて賛美し、感謝して、日々、神様に信頼していきたいものです。

 お祈りしましょう。                                      




★教会の祈祷会での、さとうまさこのメッセージを掲載しました。




 
posted by さとうまさこ at 19:51| Comment(0) | 聖書の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月29日

大寒








     冷たさの 頬にとどまる 昼下がり



 

   寒中お見舞い申し上げます!



    今年の寒さはまた格別です。昼間になって、日差しが明るくても暖まりません。
    今朝は教会の礼拝に集う方たちがみな、完全防寒の支度でした。
    あいさつが「寒いですね」。
    春が待ち遠しいですね。せめて、たまには、ポカポカの日がくるのはいつでしょう。


    みなさまの生活とご健康の上に、神様のお守りがありますように。

                               さとうまさこ

  













  


posted by さとうまさこ at 19:28| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月17日

ようこそ!




 このブログでは、小説とエッセイを発表しています。
ここから、私が発表している記事のすべてに入っていただけます。

 エッセイCoffee Breakは、聖書を毎日読みながら、祈りつつ書いたものです。あくまで一信徒として思うところを記しています。教訓になったり、解説になったり、権威のある方々の書物から、大幅な引用をしたりしないよう注意しています。引用は、しばしば自分の考えをごまかす恐れがありますし、一部だけ使わせていただくことで、引用元の文章を貶めると思うからです。

 2010年8月、創世記からつづり始めて、現在、士師記20章まできました。(2016年7月27日エレミヤ書10章です。)新約聖書やほかの文書との関連にも注意を払っていますが、いつ黙示録に到達するのか見当もつきません。この先も長く、お付き合いいただけたら嬉しいです。

  
 小説は、聖書に材を取った「聖書物語」と、現代小説を準備しています。書く予定はあるのですが、忙しくて、まだ、数は少ないかもしれません。取材源の聖書は、豊かな「いのちの世界」なので、神様がともにいて書かせて下さるよう、こちらも祈ってすすめる毎日です。
 
 訪問して下さる方が、お茶でも飲みながら楽しく読んでいただけるような記事になればと念願しています。

 このブログのため、幾人かの牧師先生、クリスチャンの兄弟姉妹、また読者の方々から、惜しみないご示唆とご教示、温かいご支援をいただいています。心から感謝申し上げます。


 ぜひ、つづけてお訪ねください。


                                         さとうまさこ




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